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2024/03/03

ある編集者のつぶやき #10 氷室冴子『海がきこえる』は「ヤングアダルト小説」なのか?

#9から続く)

アニメ『海がきこえる』のストーリーはごく単純で素朴だ。
冒頭、高知から東京の大学に進学した杜崎拓は、件(くだん)の吉祥寺駅の向かいのホームに、武藤里伽子の姿を見た気がする。帰宅して友人から電話で武藤は東京の大学に進学した、と聞かされた杜崎は、荷物の中から武藤の写真を見つけ、高校時代を思い出す。
2年前、東京から高知の県立進学校に、武藤が転校してきた。杜崎の親友・松野豊は武藤に一目惚れをする。しかし武藤は高知弁を見下し、同級生ともほとんど交流しようとせずクラスから浮いていた。
ある日杜崎は成り行き上、武藤とともに東京に行くはめになり、彼女の複雑な家庭環境を知ることになる――。
 
『海がきこえる』の連載の挿絵は近藤勝也で、そのままアニメのキャラクターデザインも担当している。
2022年に発売された新装版(徳間文庫)の装画の武藤里伽子は、近藤が新たに描き下ろしたものだ。こちらを少し睨みつけるような勝ち気な目の表現が今どきのアニメのヒロインにはあまりないもので、とてもいい。
原作には続編『海がきこえるII〜アイがあるから〜』(版元同上)があり、こちらも昨年新装版が出た。杜崎の大学1年生のクリスマスまでを描いたもので、杜崎は東京で武藤と再会し、そして新たな年上のヒロイン・津村知沙が登場する。
 
氷室は2008年、51歳という若さで肺がんで早逝した。やはり2021年に復刊されたエッセイ集『いっぱしの女』(ちくま文庫)を読むと、とても凛とした女性だったということがわかる。
この本の冒頭に、当時数々のインタビューを受ける中で、男性記者から「あなたは処女なんでしょう?」という今では完全アウトの質問を受けることが多かったというエピソードが書かれている。
そのことに長く疑問を持っていた氷室は、「いっぱしの女」=「30歳を超えた女性」になってはたと気づいた。要するに「少女小説」を書くのは、昔の言葉で言う「おぼこい」女性にしか無理なのだと世の男どもは思っているらしい、と。
しかし氷室はそれに対しては静かに怒りながら、冷静な分析を加えていく。非常に明晰で気持ちがいい文章だ。ウジウジしたところ、甘えたところが一切なく、とにかくカッコいいのである。
 
最近、『海がきこえる』『海がきこえるⅡ~アイがあるから~』を読み直して、いったいどこが「ヤングアダルト(10代後半の青少年向け)小説」なのだろうと思ってしまった。それぐらい、(年齢ではなく概念としての)“大人”が書いたとはっきりとわかる文章なのだ。
まさか40代になってこのジャンルの小説に胸打たれるとは思わなかった。90年代初頭から半ばにかけて10代の読者がこれを喜んで読んでいたのだとしたら、その成熟ぶりにはいたく感心してしまう。
氷室冴子は大学時代、志賀直哉の文章を徹底的に分析して研究していたという。卒論では堀辰雄を論じたそうだ。その知的ベースが、小説の文章にもはっきりと表れていると個人的には感じる。
(この項終わり)

 

プロフィール

ある編集者

大学卒業後、大手出版社に勤務。
子供の頃から漫画が大好きだったが、いざ大人になると小説の編集にかかわり、多くの作品を世に送り出すことに。
ここでは思ったことを率直につぶやいてみたい。

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